Facebook - 清森 義行
2020年7月31日
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1911457795657970&id=100003813040959
(以下一部引用)

【質問】

「縁起の法則を理解することで、死に対するアプローチが変わる」と聞きますが、どのように変わるのでしょうか?

【回答】

「存在したいという『渇愛』に駆られて、生から生へと流転している」という、あるがままの事実を、

私達が、徹底的に納得することが出来るならば、

「現在の生も、来世の生も、その後に続く生も、『単なる一つの連続的な流れ』であることに過ぎない」と気がつきます。

ですから、生きることに比べて、私達は死ぬことを悲しむ理由はなくなります。

生と死は、同じプロセスの要素なのです。

「生」とは「執着または、存在欲の流れ」であり、

「死」とは「執着したものにおける、単なる変化」なのです。

「縁起の法則」を理解する人は、この「輪廻世界」の中で、

生によって死が、死によって生が、引き起こされていることを十分に納得しています。

ですから、死の瞬間を不安で、おののくことはありません。

「生は死」であり、「死は生」に過ぎないことを理解するのですから。

「縁起の法則」を理解することで、私達は正しく生きることの重要性を、知ることが出来ます。

正しく生きることが出来れば、死ぬことは、今よりも、更に高い次元に転生するための大きな条件となります。

このように、死の見方が変わってくるのです。

ポイントを確認しますと、

●「縁起の法則」を理解すれば、死に対する見方が変わる。

●正しく死を観る人には、もはや「不安や恐怖」は存在しない。

●死をどのように見るかは、「すべては見方」で決まる。

たとえば、家には玄関が一つしかないとしましょう。

さて、その玄関は入り口ですか?

出口ですか? 

道路側にいる人にとっては、入り口であり、
家の中にいる人にとっては、出口になります。

しかし、いずれにしろ、同じ一つの玄関には変わりありません。

ただ異なる角度から、玄関を見ただけなのです。

「死は生の裏面であり、生は死の表面にすぎない。」

実際のところ、「生・死」とは、絶え間のない欲望の2つの顔といえます。

死とは、必ずこの世を去ることでもあります。

また、死とは、輪廻転生して、新しい家族の一員になることでもあります。

死か生か、それは見方によりますが、我々は、そのどちらか一方の面しか見ない、見ようとしない傾向にあります。

死を見る人には、生が見えず、生を見る人には、死が見えません。

結局、生と死を、互いに関連し合う一つのプロセスとして、私達は対等に見ていないのです。
いや、見えないのですね。

私達は「死によって生があり、生によって死がある」と「生・死」の2つが密接に連続していることを知らないために、

一方(死)なしに、もう一方(生)が得られる、と錯覚しております。

少なくとも、そう望んでいます。

つまり、生きていたいが、死にたくないと。

しかし、これは残念ながら、不可能です。

生に執着することは、結局、死にも執着することなのですから。

生の特徴は、執着(取)であり、

その必然的結果が、「縁起の法則」に基づき、死ぬことなのです。

もし死から逃れたいならば、生きることからも、離れなければなりません。

生と死を乗り越える、これを生死(しょうじ)の一大事の解決と言います。

「縁起」のプロセスを完全に変えてしまわなければならないのですね。

つまり解脱です。

これは、しがみつき取ろうとする『渇愛』を断ち切ることでのみ、可能になる、とブッダは教えられます。

つまり、生に対する愛着を捨てること。

生きる上での様々なことに執着すれば、一時的な満足は、得られるかも知れません。

しかし、その愛着したものは、必ず失われて消えてゆきます。

なぜならば、普遍的な真理である「縁起の法則」と共に、「無常の法則」が作用しているからです。

ですから、喜びの対象は、悲しみの対象になってしまうのです。

ある詩人の言葉に、

『この世における甘い喜びとは、
 苦しみを偽装したものにすぎない』

とあります。

私達も、この詩に同感できると思います。

愛着から生じる喜びは、離別という悲しみに、必ず変わってゆく。

これは苦しいことですね。

心を躍らせて、幻覚を追い求めた翌日には、嫌悪を抱いて、それを捨てる。

意気揚々とした、次の日には、落胆に沈むことになる。

心が、まるでフットボールのように、あちこちに投げ飛ばされるのを、私達はどこまで放っておくのでしょうか。

執着から離れて、より満たされた落ち着き、安全に智慧を持って生きることが、私達には、大切なのではないでしょうか?

我々の世界には、現象面としては、不幸な出来事は起きるし、病気にもなります。

私達には、人生に起こってくる諸々の出来事を変えることは出来ません。

しかし、見方は確実に変えられます。

「邪見」から「正見」に変えていくのが仏教ですので。

ここで「無常の法則」と「縁起の法則」見方を変える上に於いて、この真理が役に立つのです。

これらの法則を理解することで、

恐怖や悲しみは、希望や喜びへと変わってゆきます。

仏法を聴聞して、冷静に人生を見つめ、穏やかに平安に生きる人には、

死に対する不安や恐怖は、ありません。

真面目に聞法実践している人には、前向きに恐れず、落ち着いて、

安らかに死という現象に直面することが出来るのですね。

このように「縁起の法則」の理解を深めることによって、「正見」となり、「死の見方」が変わってくるのです。

浄土真宗講義【29年06月17日 】①三世因果について(順現業・順次業・順後業)・清森義行